夫はいい人だった。人当たりがよく優しくて、私の身内も父はもちろん、若い甥や姪までも、皆が彼のことを大好きだった。仕事関係の人にも好かれていて、夫が起業した時からの二人のスタッフは、事業が傾いてからもずっと最後まで夫と共にいてくれた。
そんな夫が、どうしてあんなに何もかもすっかり失ってしまう惨めな最期を迎えなければならなかったのか?と、私は思わずにはいられない。
もう失うものはないほどに全てを失っているのに、さらにがんに冒され、生きるもシぬも、どちらにしても望みのない地獄のような人生の締めくくりだったと思う。
そんな夫が人生の一番最後に失ったもの。それは本当なら絶対になくなるはずのなかったものだ。それを失ったことは夫にとってとてもショックだったと思うし、本当にとても可哀想だった。それは何か?・・・「母親」だ。
いや、義母が亡くなったわけではない。
夫の母はかなり癖のある人で、義父とも不仲の挙句に離婚したが、それでも息子である夫のことは特別に愛していると、身内の誰もがそう思っていた。当の夫もそうだったろう。
病気が発覚し、夫が突然入院することになったとき、私は義母に対して夫の病状をいったいどこまで、どう説明したものかととても悩みながら会いに行った。ところが、義母は夫の病状について、私に一切尋ねなかった。どんなふうなのか?、どこか痛いのか?、ご飯は食べられているのか?、そんなことが気にはならないのだろうか?、義母の態度が私にはとても腑に落ちなかった。
それから夫が2ヶ月入院した間、義母が病院を訪れたのはたった一度きり。それも夫の妹や従姉妹と一緒、要するに"足があった"ときだけだった。義母は年はとっているが元気で、夫がシんで一年以上経つ今でも、外出しない日はないほど元気に過ごしている。それなのに、がんになった息子が入院している病院へは来なかったのだ。
だが、夫に電話をかけてきたことはあった。しかし夫が言うには、その電話はとても病気の息子を心配したり、気にかけているという電話ではなくて、自分のことばかりしゃべり、終いには「もう電話をかけてくるな!」と夫を怒らせてしまった。
その後、一旦退院した夫が実家を訪ね、約1ヶ月ぶりに顔を合わせた母親に「お母さん、久しぶり」と言ったら(多少嫌味が入っているよね)、義母は「ふん」というように顔をそむけたそうだ。
そしてその日、義母は、夫に引導を渡すかのような決定的な言葉を発した。
仲のよい従姉妹が「〇〇ちゃん、温泉にでも行ってきたらいいよ。」と夫に言ったとき、義母は「何をしてもいっしょよ。寿命なんだから」とそう言ったのだ。
その場の空気を一瞬にして凍りつかせるようなその発言に、そこにいた誰もが驚き呆れ、そして怒りを露わにしたらしい。夫は帰って来る前に、家にいる私にメッセージを送って来て、事の顛末を教えてくれた。夫は、私の前では怒っているというより呆れていたが、義母のその言葉を聞いた時の夫は、顔色を変え「お母さん、俺は病気なんだ!」と語尾荒く言ったと、後で夫の妹が教えてくれた。
夫が救急車で運ばれて最後の入院をした時、夫は私と妹に「母親には知らせなくていい」と言った。だが、私は義母に電話をかけ、夫の容態がよくないことを伝えた。それでも母親なんだから..とそう思ったからだ。しかし、この時も義母は夫がどんなふうなのか、全く聞かなかったし、もちろん病院へ来ようともしなかった。
そしてついに夫がシんで・・・、とても急なことだったから、さすがに義母は動転するだろうし、私や妹に対して怒るであろうと思った。が、ちがった。義母は実に淡々と、自分の息子の遺体のそばに突っ立って冷たい目で息子を見下ろしていた。
葬儀に参列してくれた人たちのほとんどが、妻である私に対してよりも、子供に先立たれた母親になんと声をかけたらいいものかと気遣っていたと思う。だが、義母はここでも実に淡々としていて、皆と普通に談笑していた。私には焼き場での義母の様子を忘れることができない。とてもではないが、あれは子供を亡くした母親の姿ではなかった。爪には真っ赤なマニュキアを塗り、声を立てて笑い、誰の目にも、あの人が息子の死を悲しんでいるようには見えなかった。(私は気づかなかったが、通夜、葬儀とでマニュキアの色が変わっていたらしい)
今に至るまで、私はあの人が息子のために流す涙を一滴たりとも見ていない...。
そんな夫が、どうしてあんなに何もかもすっかり失ってしまう惨めな最期を迎えなければならなかったのか?と、私は思わずにはいられない。
もう失うものはないほどに全てを失っているのに、さらにがんに冒され、生きるもシぬも、どちらにしても望みのない地獄のような人生の締めくくりだったと思う。
そんな夫が人生の一番最後に失ったもの。それは本当なら絶対になくなるはずのなかったものだ。それを失ったことは夫にとってとてもショックだったと思うし、本当にとても可哀想だった。それは何か?・・・「母親」だ。
いや、義母が亡くなったわけではない。
夫の母はかなり癖のある人で、義父とも不仲の挙句に離婚したが、それでも息子である夫のことは特別に愛していると、身内の誰もがそう思っていた。当の夫もそうだったろう。
病気が発覚し、夫が突然入院することになったとき、私は義母に対して夫の病状をいったいどこまで、どう説明したものかととても悩みながら会いに行った。ところが、義母は夫の病状について、私に一切尋ねなかった。どんなふうなのか?、どこか痛いのか?、ご飯は食べられているのか?、そんなことが気にはならないのだろうか?、義母の態度が私にはとても腑に落ちなかった。
それから夫が2ヶ月入院した間、義母が病院を訪れたのはたった一度きり。それも夫の妹や従姉妹と一緒、要するに"足があった"ときだけだった。義母は年はとっているが元気で、夫がシんで一年以上経つ今でも、外出しない日はないほど元気に過ごしている。それなのに、がんになった息子が入院している病院へは来なかったのだ。
だが、夫に電話をかけてきたことはあった。しかし夫が言うには、その電話はとても病気の息子を心配したり、気にかけているという電話ではなくて、自分のことばかりしゃべり、終いには「もう電話をかけてくるな!」と夫を怒らせてしまった。
その後、一旦退院した夫が実家を訪ね、約1ヶ月ぶりに顔を合わせた母親に「お母さん、久しぶり」と言ったら(多少嫌味が入っているよね)、義母は「ふん」というように顔をそむけたそうだ。
そしてその日、義母は、夫に引導を渡すかのような決定的な言葉を発した。
仲のよい従姉妹が「〇〇ちゃん、温泉にでも行ってきたらいいよ。」と夫に言ったとき、義母は「何をしてもいっしょよ。寿命なんだから」とそう言ったのだ。
その場の空気を一瞬にして凍りつかせるようなその発言に、そこにいた誰もが驚き呆れ、そして怒りを露わにしたらしい。夫は帰って来る前に、家にいる私にメッセージを送って来て、事の顛末を教えてくれた。夫は、私の前では怒っているというより呆れていたが、義母のその言葉を聞いた時の夫は、顔色を変え「お母さん、俺は病気なんだ!」と語尾荒く言ったと、後で夫の妹が教えてくれた。
夫が救急車で運ばれて最後の入院をした時、夫は私と妹に「母親には知らせなくていい」と言った。だが、私は義母に電話をかけ、夫の容態がよくないことを伝えた。それでも母親なんだから..とそう思ったからだ。しかし、この時も義母は夫がどんなふうなのか、全く聞かなかったし、もちろん病院へ来ようともしなかった。
そしてついに夫がシんで・・・、とても急なことだったから、さすがに義母は動転するだろうし、私や妹に対して怒るであろうと思った。が、ちがった。義母は実に淡々と、自分の息子の遺体のそばに突っ立って冷たい目で息子を見下ろしていた。
葬儀に参列してくれた人たちのほとんどが、妻である私に対してよりも、子供に先立たれた母親になんと声をかけたらいいものかと気遣っていたと思う。だが、義母はここでも実に淡々としていて、皆と普通に談笑していた。私には焼き場での義母の様子を忘れることができない。とてもではないが、あれは子供を亡くした母親の姿ではなかった。爪には真っ赤なマニュキアを塗り、声を立てて笑い、誰の目にも、あの人が息子の死を悲しんでいるようには見えなかった。(私は気づかなかったが、通夜、葬儀とでマニュキアの色が変わっていたらしい)
今に至るまで、私はあの人が息子のために流す涙を一滴たりとも見ていない...。
Muffin / alexreinhart
義母はまるでモンスター..と私は思う。夫は「あの人は鬼っ子」、「親戚中あの人以外にあんな人はいない」と言っていたが、本当にそう。
夫は、自分が事業に失敗して役立たずになったから、あの人にとって俺はもう用無しになった..と、妹にそう言ったそうだ。母親の愛情ってそんなものではないはずなのに。。
夫の葬儀のあと和尚さんに挨拶に行くと「〇〇さん(すでに亡くなっている義父)が来ていましたね」と言われた。驚いたと同時に、傷心でこの世から旅立つ夫を、夫のことを愛してやまない義父が迎えに来ていたと思うと、なんだかほっとして、ストンと和尚さんの言葉を受け入れることができた。夫はシんで楽になったのかもしれない..とその時はじめて私は思った。
0 コメント:
コメントを投稿